気をつかうと言うこと

電車でデイバッグを邪魔に感じることがある。だから自分が背負っているときは後ろに気をつかう。
今日、図書館でデイバッグを背負ったまま本棚の前で本を探している人がいた。後ろを通ろうとしても知らん顔。二度目は「すみません」と声をかけても。その本棚は「建築」。たぶん学生なのだろう。社会人とも思える。調べもののため本を探している風だった。その時、後ろを通る人に対して気も配れない彼はどんな建築を作るのだろうかと思った。
最近、周りの人に対して気を配れない人が多いように思う。思いやりが希薄な世の中に感じることが多い。自分も何処まで出来ているかわからない。でも迷惑はかけないようにと思っている。
建築と茶道を結びつける人もいるがそのポイントは美意識でありやはり茶道の「もてなす心」ではないだろうか。本質的な部分での共通点だろう。
「建築」を設計するに必要なのはデザイン力などいろいろあるがやはり使う人に対する「気遣い」であり「思いやり」だと私は思っている。誰のために設計するのかということ。素晴らしいとされる建築にはその気持ちがあるから喜ばれるのだろう。
たぶん、「思いやり」のようなものはその人から染み出すモノなのだろう。こんな事は学校で教わることではない。とってつけたような「気遣い」や「思いやり」はすぐにメッキが剥げる。これはどんな仕事でも同じだろう。突き詰めれば優しさがあるかないか。その気持ちは忘れたくない・・・